大震災を受け、自分に何ができるのでしょうか?
日を追うごとに正常化する生活の中で、どういった支援があるのでしょうか?
会社の取り組みは決めましたが、被災地と個人の繋がり方や在り方は、
まだまだ決めれずにおりました。
そして、僕は走ることを決めました。
nikeの主宰するnike+のCharengeの中で
1km走るごとに寄付をするというチャリティーを目にしたからです。
僕以外のwoakyメンバーが既にnike+で走るのを尻目に、
正直自分もやきもきしていました。
大雪を言い訳に行動をしない自分がいたのですが、
今では、いくらでも走って寄付しようと思っています。
(現在、このCharengeは終了しています。)
こういった活動はあまり議論されませんが、
「カッコいい」と「スタイリッシュ」という感覚は、何をやるにも大事です。
ヨコシマな発想から物事が始まり、大きくなることを爽快に思います。
ランニングウェアやシューズを選びながら、
「このワクワクする気持ちと活動が、いずれ被災地へ届くんだ。」
と思うことは、やはり爽快、痛快な気分でしかありません。
いつかの週刊誌でリリー・フランキー氏が仰っておりました。
「浮浪者がエコを気にして、はじめてのエコなのだ。
セレブの間で流行するだけでは、本当の成功と云うことはできない。」と。
(うる覚えなのでニュアンスの正確さはご容赦ください。)
ムーヴメントに最も遠い人が素直にそう思える仕組みができて、はじめて成立なんだと。
被災者を支援したいという気持ちや、それに伴う活動は、
「カッコいい」、「スタイリッシュ」、
これらもあるからこそ、大多数を納得させる大きなムーヴメントとなるのです。
さらにそれらを通り越して浸透することが、真の活動たるものなのです。
だからこの際、包み隠さず言い切ります。
「僕は被災者を救いたい。さらには、走ってモテたい。」
同義として、
「僕はモテたくて走る。さらには、被災者を救いたい。」
こんなときだからこそ、単純で短絡的なことが強いのかもしれません。
説明せずとも成立する妙。
偽善、超個人的、しかし貢献ができる、突き抜けていく感覚。
ファッショナブルの次元を超えて、
それはどこか平等でありながら、クスッと笑える機知を富むもの。
誰よりも、誰よりも、力強く、僕はこの正義を信じています。
決して悪ふざけではなく、まっとうな正義だと思っています。
Cely