「離れること」と「一緒になること」。
それは「さよなら」と「はじめまして」が対でありながら
必然であることに似ている。
10代後半から20代の全てを一緒に過ごした腕時計、データバンク。
高校生で金がなく、裏原宿全盛期に何とか手にしたいと憧れ、
よだれを垂らして原宿のショウケースにかじりついたことは、
もはや忘れることができない。
いまの右腕には別のものが納まり、古いそれはケースの中にしまってある。
自分が使ったモノは、親しい間柄の人にしか渡すことができない性分。
そして、眠らせたままにするのも、未だに興味が薄れずにいるから忍びない。
「現役でいてほしい」
東京を離れても友人が乗り続けてくれた、かつてのバイクのように、
この時計を現金でイヴェントの報酬を受け取らない友人に渡すことにした。
新しい電池に替え、ベルトの汚れを拭き取っていく。
黙々と作業をしていると、特別な感情があった青春時代が頭をよぎる。
それを手離すことは、「さよなら」と、区切りをつけることになる。
一方で、腕時計を新たにはめた友人には、「はじめまして」と、
まがいなりにも、新しい何かが起きると信じたい。
それはもしかしたら、彼女がその眼鏡に叶う人と時間を気にしながらも、
どこか微笑ましく街を歩くことであったり、と。
可愛らしく若い友人の彼女にこそ、この時計は納まりがいいと思う。
そして、あなたの近くでこいつが活躍してくれると、僕は嬉しくなる。
「これも必然?」
意地悪して訊いてみたくなる、ね、横山さん。
Cely