欧米では気持ちの表現をお金にすることを、当たり前のようにするそうです。
僕は日本の慎ましい文化は大好きですが、こういった状況下では、
国際的にシンプルでなくては、何が気持ちの指標になるのでしょうか?
今回の大震災では、たくさんの募金の窓口があります。様々な活動があります。
信頼をおけるところがどれほどあるのでしょうか?
その活動は本当に被災者の方々のためになっているのでしょうか?
会社の企画、運営をする立場からすると、今はバランスがいいと思えません。
たくさんのチャリティーイヴェントが、ままに立ち上がることはいいのですが、
安全性を担保し、分かり易い活動を導く、「絞る」動きがないことが心配です。
僕が企画をするなら、新しいことではなく、
数ある活動の中から信用あるところを案内することをします。
(たとえば、各募金やチャリティーの比較や使われ方を追求するサイトとか。
すでにやられている方がいらっしゃるのであれば、そちらに任せます。
不用意に間口を広げることはしません。)
企画をしている方に発信します。
立ち上げることよりも、あるものを分かり易くしましょう。
日本には支援するところがたくさんあります。
そこの信憑性を吟味し、シンプルに導くことが、いまの努めであると思います。
今回は腹を括って活動の終着駅をお金とし、
皆の善意を信頼できるところに導くことをお願いします。
Cely
太平洋に沈み行く夕日を恋人と眺めながら「お金じゃないよね」と言うの頷けます。
しかしながらこの期に及んで「お金じゃない」なんてことは言えません。
あの美しい海岸を取り戻すのには優しさだけでは足りません。
優しさに裏打ちされたお金が必要で、今がまったくその時期であると断言出来ます。
著名人が億単位の寄付をして何の自慢もしない所に著名人たる所以を感じました。
また僕たちは被災地からの「ありがとう」も全く期待していません。
そういった関係性の元にある目に見えない優しさを基調としてこの国は成り立っているのだと思います。
今必要な事を数え上げたらキリがないですが、まずお金です。
「何かしよう」と「この際だから」と乱立している個性ではありません。
優しさだけで生きていけたら、なんて考えます。
何も言わずに募金箱に支援の手を差し伸べる人ほど、慈愛に溢れた人はいません。
類推解釈よりも拡大解釈を。
そこにお金があったら、僕は優しさを握りしめて募金しようと思います。